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大阪高等裁判所 昭和35年(ラ)111号 決定 1960年5月18日

抗告人 堂三郎

相手方 大阪府公安委員会

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

本件抗告理由は別紙のとおりであり、これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

行政事件訴訟特例法第一〇条第二項に所謂「償うことのできない損害」とは原状回復不能の損害のみを指すのではなく、社会通念上の金銭賠償不能の損害をも含むものと解すべきところ、自動車運転手が一定期間運転免許を停止せられることは議員が除名或は出席停止処分に付され、重要議案の審議を阻止され、多数の選挙民によつて選出せられた議員としての職務執行を不能ならしめられる場合とは異り、そのこと自体によつては右にいう「償うことのできない損害」があつたものということはできないし、その他抗告人提出の全疏明によつてもこれを認めることはできない。

その他原決定には何等の違法も認められないから、本件抗告はその理由がなく棄却を免れない。

よつて、民事訴訟法第四一四条第三八四条第九五条第八九条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 吉村正道 竹内貞次 大野千里)

抗告の理由

一、原決定によれば「償うことのできない損害」とは原状回復が不可能であるというだけではなく、金銭による損害賠償によつてもてん補されえない損害をいうとあるが、右の様な見解は本執行停止制度を無意味ならしめるものである。

即ち、(一) 原決定も謂う様に取消訴訟の提起は必ずしも執行を停止されないのが原則であることは法の明定する所である。然しながら、右の一般原則はあく迄行政目的を円滑に追行なさしめる為に、濫訴によつて、その運営を阻害されることから防ぐ波堤であつて、真面目な理由ある訴に対して迄之が処分の執行を強行しようとするのではない。蓋し、日本国憲法に於ては主権者は国民であり被処分者である国民の権利を濫りに毀損した上の行政の運営ということは無意味であるからである。右の「償うことのできない損害」とは右の様な目的のバランスを計る物指しの役目を果たすものであり、原決定の様に解釈せられるべきものではない。

(二) 「償うことのできない損害」の「償うことのできない」とはその文字論から言つても原状回復が出来ないと言うことである。従つて、最高裁判所大法廷も償うことのできない損害とは「・・原状回復のみを指すものではなく、金銭賠償不能の損害を意味する場合もある」と判示している(昭和二十五年(ク)第十二号昭和二十七年十月十五日決定最集六巻九号八二九頁)のである従つて、この損害は原決定の謂う様に金銭賠償不能だけを意味するのではなく、原状回復不能の場合も包含するのである。

(三) 凡そ金銭によつて償うことの出来ない損害とは存在するのであろうか。特に財産権の内に金銭で補償することが出来ないものはない筈である。そうすると原決定の見解によれば本制度自体の否認に等しい。青森地方裁判所も『被申立人は法律にいわゆる「償うことのできない損害」とは金銭を以て補償することのできない損害の意だと抗争するけれども凡そ財産権の内金銭で補償することができないものは絶えて存しないから所論のような理屈を正しいとすれば法律が折角一定の条件の下に行政処分の執行を停止することができる旨定めた規定が適用される事案は一も存せず、折角違法な行政処分の執行により齎される厄禍を未然に防止するため設けられた斯法の精神に背戻するに至るであろう。』と述べ『そこで、ここにいわゆる「金銭を以て補償することのできない損害」とは「社会常識上一般に通常人の通常の手段によつては到底回復至難の打撃」あるいは又「その回復は物理上必ずしも困難ではないが経済上異常の犠牲を払わなければ回復又は補償することができない損害を意味するものと観ずるを相当とする』と判示しているのである(昭和二十六年四月二十六日決定行判集二巻五号七四〇頁~七四四頁)非財産権上の権利又は利益もすべて金銭によつて償うことの出来るものとして取扱われるのが資本主義社会の常識ではないか。

二、次に原決定によれば右の様な「償うことの出来ない損害」について未だ疏明がないというにあるが、右の疏明は充分であると思料する。

(一) 何よりも、抗告人は運転手であるということである。そして運転免許を得たものでないと自動車の運転をし得ないことは法の明定するところであり、この運転手の運転免許を停止せしめられた抗告人は正に通常の手段によつては回復することの出来ない打撃を蒙るものである。

(二) 次に一旦与えられた運転免許は永久に効力があるのではなく時的限界があるのであり、この間の一定期間を違法に停止せられることは償うことの損害を蒙るものであることは任期の定まつた議員の除名の場合と同じである(奈良地方裁判所昭和二十七年(行モ)第一号昭和二十七年九月二十四日決定行政集三巻九号一八〇五頁)

三、更に原決定は取消訴訟中にその目的自体が失われることは損害が償いえないものかどうかと無関係であるというが、一定の期間経過と共に訴の利益が無くなる訴訟等の為に本件制度の存在理由があることを忘れた見解である。

成る程、論理的には原決定の様な解釈を取つた場合(償うことの損害について)には一応、そう考えられるが原決定の右の解釈が採用せられ得ない以上期間の経過によつて訴の利益が無くなる事案も矢張り考慮に入れるべきである。

殊に、憲法上行政処分に対しても裁判をする機会を与えられながら、一方憲法に要求する迅速な裁判が物的人的資設の不足から全きを得ない現在本停止処分を活用すべきである。(因みに、本件第一回口頭弁論期日は昭和三十五年五月十六日午前十時である。余すこと四日にして停止期間は経過するものである。)

四、最後に第一項(一)に論じた如く裁判所はあく迄国民が主権者であることを確認し、行政権偏重を止めるべきである。原決定も謂う通り取消訴訟の提起は執行を停止されないのが原則である。然し、之は何も行政処分に限つたことではなく、仮執行宣言付判決に対する上訴、確定判決に対する請求の異議、第三者異議の訴の提起によつて、該判決の執行は停止しない。而して、上告の提起の場合には同じく「執行に因り償うこと能わざる損害を生ず可きことを疏明し」(民訴法五一一条I)後者の場合には、「異議の為主張したる事情が法律上理由ありと見え且事実上の点に付き疏明ありたるときは」(同法第五四七条II、五四九条IV)とあるのである。然るにこれらの場合と行政処分の場合とでその適用に差がないと言い得ないであろうか。之を否定するものが果して何人あるであろう。抗告人は肯定せざるを得ないのであり、行政権偏重をまざまざと見せられるのである。

日本国憲法では私権も、公権も同じ地盤のもとで、同じ訴訟形式が考えられているのである。(例えば立証責任の例を見られ度い。行政権には自力執行性があるのみであり、行政処分の法適合性は今や学者実務家の間で否認されつつある現状を見られ度い。)

五、以上の理由によつて抗告の趣旨記載の決定を求める為本抗告の申立に及んだ次第である。

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